昭和57年 9月26日 朝の御理解  〔入力者:あい〕 

 御理解第88節「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」

 昨日は、幹部研修会がございました。みなさんのお話を頂いておってなるほど合楽でまぁ最高の幹部の方達のお話ですから、素晴らしいお話でした。もう私は聞き終わってから申しましたことですけれども、どの方の場合であっても、もう生神への精進を一生懸命ならっておられる方ばっかりだと、まぁ申しましたことでございましたが。

 合楽の信心をまぁ基本、いわえる合楽の御理念をもとにして、信心のけいこをさせて頂いておるということはまぁ取りも直さず生神への道を精進しておるということなんです。そこに問題が問題でなくね、苦しいとか、辛いとかという今日の御理解で言うと、辛いとか苦しいとかという顔をすることがない。もし辛いとか苦しいとかというときには、もうあたなの信心がもういよいよ合楽の信心から外れている時なんだね。

 もうとにかく有り難うして、楽しゅうして言うあの心の状態で信心を進めていっておられるいわえる方達ばっかりの発表でしたがね。これはだからみんながそんな幹部の方達のような信心ができておるとか、出来ておらなければならんということではありません。

 けれどもやはり一つのまぁ過、その過程としてですね、お互いの信心が例えば、そういう辛いとか悲しいとか苦しいと思うときに、「はあ自分の信心は今ゆるんでいるときだなぁ。本当に合楽理念をもとにして信心のけいこをしておるときではないな」とまずは、悟らなければいけません、分からなければいけませんね。そこからそのことに対して、お礼が言えれる信心。そのことに対してね、いわえる、まぁ信心の楽しさとか喜ばしさというものが感じれれるところまで、信心をいや合楽理念を頂かないとそんなふうにね、ぜ、合楽理念の絶対というものはね、みなさんが分かり、信じて、そしてなるほど別に生神様になろうと思っているわけではないけれども、いつの間にか生神への道をひたすら進んでいる自分に気付くのです。

 まぁこの88節は、もう合楽ではもうとにかくもう限りないほど頂いております。それはやはり限りないおかげにつながらなければならん。いわえる、お徳を受けなければならない。広がりに広がって行くおかげの土台を作らなければならない。

 ためには、私共が信心の帯をしっかりしてです、例えば、これが信心がないならば、または、信心がおすい、ただおかげをおかげの信心ならばね、おかげを頂かない、思うようにならない、苦しい人間関係に出会うときに、やっぱり辛いとか悲しいとかという顔をせにゃならん。けど、合楽の場合はこのへんのところを超えている。

 日頃頂いているみ教えが、ですからもうすぐそこに「あぁこれは自分が緩んでいるなぁ、自分が少し御理念を頂きながら、御理念に基づいた考えかたができていないなぁ」と、こぉ~分からせてもろうて、そこの精進をね、その精進をするときには、やはり辛いときは、辛い。苦しいことは苦しんだけれどもね。それを人に見せることはいらん。自分の心の中に自分の信心をいよいよ高めていくことですね。

 これはどうでもいわえる88の広がるに広がるおかげをお徳を受けなければならんとみなさんがね一心発起したら今私が申しますところが分かってくるね。
 これは椛目の時代でございましたが、私のお手代わりをして下さる方がその当時はまだ久保山先生お一人でしたでしょうか。まだ『(?)』みえておられない頃でしたが。朝から終日ご神前奉仕、御結界奉仕をさせ頂いた。もう外の後には絶対出らないことでございましたから。いわえる門外不出の修行をさせて頂いておるときです。

 丁度今、椛目に行っております愛子がまだ幼稚園の自分でしたから、従弟同士2人で幼稚園から帰って来る。「只今帰りました」と言うて御結界にやってくるから。私は「今日は何を習ったか。今日はどげなん歌、どげなん踊りを習ったか。ちょっとここで二人が、ならんで」その日、習ってきた歌を歌うんですね。

 ●①あるときに2人が歌を歌います。「遊びにいきたし傘はなし『(?)』このおもけれた」というような歌を、もうこちらは涙ボロボロ流しよるね。やっぱしもう門外不出とこぉ決めた者の、やっぱ出てみたいなぁといったようなものをどこかにすみのほうにあるわけですね。まだ、今のように体がこんなに不自由ではない。まぁ元気いっぱいのときですからね。
 
 遊びに行きたいけれどもね、許されない。遊びに行きたいけれども傘はない。しかも、『(?)』がこの『(?)』まで切れているというのです。今日私ご神前で、あんままっ赤な女の子のはく、いわえる『(?)』のがく。この花を持っててっとりばえ、こぉもきれておるという下駄を1足頂いたんです。

 どういうことだろうかとね、今日のご理解にどうつながるのかとこぉ思わせて頂いたんですけれども。一つの信心の基礎きど、言うならば辛いとか悲しいとかということが無いのことじゃないね。そういうときにですね、それこそ鏡を立ててというのは、合楽理念という御理念の鏡を立てて、そしてここでは悪い顔は見せてはならん。それは悲しいのです。外にも行きたいのだけれども、御理念に基づいて、お互い信心のけいこをさせて頂いていると、「はあ、こういうときに、悲しいとか苦しいとかと思うことは、これはまだ私の信心の修行不足だ。これは私の信心の帯がゆるんでいるときだ」と悟れということであろうと今日は思いましたね。

 だからそういう過程を通っておられる方達ばっかりの話しでした昨日は。熊谷さんとか原さんとかというね。そういう、それこそ遊びに行きたい傘はなし。『   』の学校のおもきれたというようなところまでいっぺん通って辛抱して、ある場合では泣く泣く辛抱しぬういて、今日のまあ楽しゅうして有り難うしてというどんな場合であってものですから。
 悪い顔やら悲しい顔やら見せるひまがないね。だからいっぺん通るところを通るということ、その通るところをです、私は大切に言わばまだこれは修行の修行不足だと。
 今、体がこんなんだから尚更ですけれども。本当に外に出よと言われるほうが、かえって辛いぐらいなこと。もうなんと言うても心がゆるがんというように段々とおかげを頂いてまいりましたね。

 だから信心もね、ただ見やすいとかどうとか言うけれども、その本当に信心を体得しようと思えば、泣くなく辛抱しいしいというところもやっぱ通って始めてね、楽しゅうして有り難うしてということになってこないと本当なものではないと思うですね。

 これはもう普通の人では考えられないこんなときに、楽しゅうして有り難うしてというような心が起こってくる。これは嘘ではない事実なんだからね。そこをやはり通るところを通ってからのことである。やはり教えの鏡を立てて、自分の姿を正していかなければならないときもあるのだね。
 そこを実を言うたら悲しいことでも腹の立つことでもないんだよ。もうそれこそ神愛なんだよ。神様が育てずにはおかんという働きなんだよと。十分に合楽では頂いておりますから叩かなければ痛いけれども有り難いという心が起こってくるね。

 はあ、神様こんな辛い思いをさせながらでも信心を鍛えて下さってあるなあというものが分かってくる。それがね、段々ね楽しゅうして有り難うしてなってくるときにはもうかな、どんな場合にいても聞いてもどんな場合にあってもです、それこそびどうだまをしないね。喜びいっぱいで受けていかれる世界。もういよいよ神への精進生神への精進。

 私共がね、始めから生神の精進なんて、その生神様になろうと思って、なら熊谷さんやら原さんやらね『 (?) 』なかろうけれども、お話を頂いておってもういよいよ生神の道をもうひたすら進んでおられるなあというふうに感じるのですね。
 それこそ教えの鏡を立てなければならない。そういうときに、辛い悲しいこぉ見せんで、自分の心の精進不足としてそれを頂けれるようなところが信心にはまず大切のようです。
 それからそこから有り難い、楽しいね。もうそれこそゆかいにまでなれれる道がついてくる。もういよいよ絶対広がりにつながらいわえる土台ができているときですからね、こんなに有り難いことはないということになりますね。

 どうぞ。